昭和四十六年十二月十五日 朝の御理解
X御神訓 信心の心得 「神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。疑 いを去れよ。」
確かに疑えば限りがない。それが神様です。形も姿もないのですから、それを信じるそれを信じようとする精進が信心修行だとわからないのです。
わかったとて朧気です。それをいよいよ絶対のものとし、確固なものにして、神様を頂くところからいわゆる、信心生活が出来る。いわゆる安心の生活が出来る。喜びの生活が出来るのです。そこでそういうそのわかるというか、そういうか自分の心にキャッチするというか、そういう手立てという事がです、いろいろ必要なわけです。 私は教祖様も御教え下さってあるように、我情我欲を離れてとこういう、只、我情我欲を離れただけではいけん。どんなに正しい事であっても、自分のいわゆる、我情我欲を離れただけじゃいけん。離れて信心してみよと、そこから成程、神様の偉大な働きを知る事が出来る。
我情我欲を離れるという事が具体的にいうて、どういう事かと、まあいろいろいわれるわけですけど、人間心を使わないというか計らいが自然と計らいのない事。
自分で右にしょうとか左にしようという計らいがあっては、どんなにそれが正しい事であっても、素晴らしい内容をもっておっても、そこに神様の働きを受ける事は出来ません。正かればよいという事ではない。いわゆる計らいのない生活、人間心を使うてのものではなくて、どこまでも自然と、計らいのない事だと、わからせて貰うておかげを頂いていって、そこでまあ、ここで言われる成り行きを尊ぶと、事のすべてを御事柄として受け切って行くこと。それはわからない人から見たら、第三者から見たら、どんなにかおめでたい男だなと、まあ、たとえば私であるならばそう皆が見るだろう。いわゆる馬鹿と、阿呆で道を開けとおっしゃるのもそれである。
そこからです、天地の働きというか天地の親神様の大愛とでも申しましょうか、その大愛を確認する事が出来る、それを信ぜずにはおられないという程しのものが生まれてくる。そこからはじめて、本当の意味に於いてすべてを、御事柄として受ける為には、その成り行きを大事にさせて貰い、修行こそが必要になってくる。
私は天地の愛を信ぜずにおられない男だという事になります。もっともっと、これから、もっと素晴らしくそこんところの信ずるという事のすきっつとした大きなものになっていく事だと思うです。
それは形に現れてくる。体験がそれを信じさせずにおかんという、おかげがともなうからです。天地の大愛を信じずにはおられん氏子に、お取次を頂かねばいけません そこに思う事も惑う事もなくなってくるのです。いや思うておった事が惑うておったことが、もう本当にそれこそ微々たるものになってくるです。もうおかしなものになってくるです。それがどんなに正しい事であろうが、素晴らしい構想をもったものであろうが、内容をもったものであろうが、人間の計らいでなすこと位、大体は、たあいのないつまらないものはない。神様のおかげでなさせて頂けるもの、自然の働きと共になされていくもの、いつも神様がバックで事がなされていく事から、いうならば神様の御守護の中になされていく事からでなければ、本当のおかげにはなりません 今朝私が御神前で頂いたのはムロと頂いた。片仮名のムとロ、土台の台という字になりますね。そして私、それから直観した事は、土台になるという事、私共は家の信心さして頂くものが、土台にならなければいけません。皆さんが教会の土台にならなければいけません。教会が教団の土台にならなければいけません。土台というものは成程、きついものです。いわゆるものをいわないという事は黙るという意味だと今日は頂いた。黙って祈る。黙々として祈る。これでなけれは決して土台にはなりません そして今日、ここに頂いております御神訓を頂いた。ですから黙って祈る人、それを私共は台になる人、しかもです、私は神様を信じきっていうならば、天地の大愛を信じきって無口になる人、私は神様はそういう人を求めておられると思うですね。
どんなに愛、教えの精神をもって教団の事を憂えておる人があります。声を大にしてこれではいけんと卓を叩いてその話をして廻ってもです、それは只、その人が一生懸命に只いうてまわっておるだけであって、決して実はあがらんです。神の大愛を信じて、そして事を処すというのでなくて、事のその大愛を信じて祈る人にならなければ駄目です。台それが本当の台になるのです、と今日私は頂いた。そういうふうに頂いた。もういうなら、形に表したのでは、もう力はそれだけ、もうそれだけ、もういよいよ微力なものになっていく、大きな力、働きにならない。それまで信ずるならば神様を信じなけれはいけません。
そうしてその上に自然とは計らいのない事、という生き方、その。神様の御働きというか天地の大愛を信じて行動する。信じて台の人にならなければいけない。
それが土台になる。例えて一家の上に信心が出来ていろいろくわしゅうなる。くわしゅうなるから信心のない家族に話して聞かせる。いうて聞かせる。話して聞かせてからいうて聞かせてからわかったのじゃつまらんです。
黙ってその家の土台になる程しの信心が出来て、そこからお父さん私も連れていて下さい、お母さん私も信心になりますというものでなければ、本当の力にはならん。 今日私は、ここんところをですね、それこそ信じて聞いて頂きたいと思うですね。 神様の大愛を信じてそして、黙って祈るという事がです、今日は台になるのだという事。無理に表れようと思うならです、それではいけんかもしれませんけれども、私は〈台〉になる事が素晴らしいと思う。その台を今日は私は、いわゆる無口と感じた 黙って祈るとこう感じた。それにはいよいよ人間心を使わずに神ながらの働きなのですから、神ながらの受け方、御事柄として成り行きを大事にしていくという生き方 しかもあれはちっとは、おめでたいとじゃなかじゃろかと、余り気の利いた者にならん事。馬鹿と言われてもチョイといわれてもよい。いわゆるお目出たい男を目指して貰う。黙って祈らせて頂く。只黙って祈るだけではいけん、今申します神の大愛を信じて黙って祈るのである。
私は教祖金光大神の偉大さというのは、そういうところにあるようです。黙ってわけ畳半畳に座りこむといったようなものであります。動かないのです。
まあ、これも金光教の独壇場だと思うのですけども、あるいは、いろんな宗教がありますけれども、宣教師とか、00教なんかはもう出てあるいてそして、お話をしてまわる。そしてそこに何がしかの信者できますとそこに布教所なり教会を建てるといったようないきかたじゃなくて、それこそ黙って祈るだけであります。
人間の助かりを願いに願い続ける。いわゆる難儀な事を憂えて、憂えるそれが祈りとなって、畳半畳にそれこそ根が生えたように、座り抜かせて頂くという事。
そして難儀な氏子の取次に専念さして貰う。もう確信をもってお取次をする。もうここにお取次願わせて頂く人達の願いを、受けきって神様へお取次させて頂く。
祈りに祈っておかげを受けるという事が、金光教の信心なのです。人が助かる事さえ出来ればという。その土台になって行くのです。台。そういう精神がです、ある取次者でなからなければね、人が助からんと思う。
この辺のところを本当に、信心をさせて貰わなければわからないところです、ね。 さあ、信心をさせて頂くというか、本当に天地の愛をしらなければ出来る事ではないです。金光様の御信心は天地の大愛を疑えばきりがない。それは声もなければ姿もないから。本当の人間というものはです、本当の真の信心、いわゆる、真の宗教でなければ出来る事ではないと、私は確信してます。
それは宗教家の例えば、それはいつの場合でも無口であり、その土台になる。しかも神を信じ、仏を信じての生き方、天地の大愛を信じての祈りと、いわゆる台、黙って祈ると。
例えば、歴史上に表れてくるような忠君愛国者というのがありますね、国を憂えてそして事に処していった人達の歴史があります。そんな本当に素晴らしい事のように思うておったけれども、だんだん、天地の大愛を信じわからせて頂くようになったらそれはむしろ邪魔にこそなっておれ、もうたあいのない事だと最近思います。それこそ名を残すというけれども、名を残したって駄目です。人間死んだら名を残すというて、名が残ったら私共は名が残らんでもよいと思うが、本当に世の中が清まり、世の中が明るうなり、人が助かっていくという事だけでもよいと思う。
例えば、高山彦九郎なんかでもそうでしょうが。憂国の士として立派な、成程立派な人であった事は違いないけれども、やり方がつまらなかった。天地の大愛を知らなかった。自然の素晴らしい働きというものを知らなかった。全国にその自分の思想とか思いとかいうものを、説いてまわったけれども、結局は切腹し自分が死なねばならぬような、言わば哀れな結果だけしか残っていなかった。
成程、名は残ったでしょう。名が残って何になる。楠正成は七生報国と、七度生まれ変わって国賊を滅ぼそうといった精神が素晴らしいと聞いてきた。
それを信じたら、いっちょも素晴らしい事はない。かえって邪魔になっているという事。天地の親神様の働きの邪魔になっておるようなもの。人間がこれが本当だという本当がです、神様の御思いという事から見たら、どれが本当やらわからんのが本当なのです。これが本当だ、これが嘘だとそんな事はない。そこに本当が本当でないかという事はです、一つ私共がです我情我欲をはなれて見て、成程わが身は神徳の中に生かされてあるという事実を体験させて貰う。はじめて、ああ、これが本当の事であったとわかるだけの事。それにはまず私がね、気の利いた男になるのじゃなくて、本当に馬鹿と阿呆に、本当に御芽出度い男にならして貰う。我情をとり我欲をとる。
いわゆる馬鹿と阿呆になってみる。そういう修行を本気でさせて頂かねばならない そして計らいのない生活に、世界に生きるという事。そこではじめて神の大愛を知る事ができ、そしてそこで、神様の御心が形に表れてくるところのものが確立されてくる。本当の意味に於いてです。いわゆる天地の大愛をわからせて頂く修行をさせて貰う。天地の大愛を感じれるようにならして頂くという事がです、天地の大愛を信じきってです、祈れる人、それを私はは今月は、【 】は家の土台であり教会の土台です。神の働きを信じ切って祈る。だから信じ切らせて頂く為の修行がです、計らいのない生活、右にしょう、左にしょうといったような思いをすててかかる事。そこには我情我欲をはなれてという事につながる。はじめて成程御神徳の中にある私達だという事がわかる。わかっただけじゃいけん。わかって祈る人でなければいけん。
私は今日、楠正成とか高山彦九郎とか話ましたがね、もう今日私は、本かってにそう思う。こげな馬鹿らしい話は、いうておる事は正しい事であっとるけれどもね、かえって国家の為に一つもなっとらんという事です。
一種の気狂というより外にない。第一神の大愛をわかっとらん、神の働きを信じとらん。神の大愛を信じて、気の利いた事をするという事ではないですよ。
神の大愛を知っていよいよ、馬鹿と阿呆になるという事なのです。教祖金光大神の生き方は。大愛を知る為に一つ、我情我欲をはなれてみるとこういうようなです、その大愛をはっきり見分けて体認させて貰う。そして黙って祈る人になれというのである。成程、名は残らないかもしれんけれども、自他共に助かっていくというのもは絶対のものである。天地の親神様はそういう人を求めておられるのじゃなかろうかと思う。疑いをされよ、疑いをされよ、疑いをさらずにそれを、疑うてかかったら大変な事になる。恐るべし、恐るべしとおっしゃるのは、ちっとばかし本当と思うておるのをそれを行う、それをいうという事はです、それこそ恐るべき事になってくるのです そういう事をひきだす事になるのです。
だからむしろ馬鹿の方がよいという事です。それを私共はです、本当のさら馬鹿ではできんから、いわゆる馬鹿にならして頂く精進をさして頂いて、神ながらな生き方を御事柄、成り行きを大事にさして頂き、事の自体それを御事柄としてそれを合掌して受けていくという。受け方生き方、それを身をもって行じていく。修行をさして頂くところから、天地の大愛を、成程わが身は神徳の中に生かされてあるという事実を把握する事ができるのです。
そしてその天地の大愛を信じて、わかったその時点からです、人が助かる事さえできればという、祈りにたつのである。信心にならしてもらうのである。そこから信用されてくるところの身の清まりであり、人が助かるというところの、過去数千年、私共が知っておる限りの歴史を振り返って見ても、国乱れて忠臣現れるというが、その忠臣が現れだした。おかげです、かえって天地自然の働きをそこのうておる事実すらいくらもあるという事。天地自然の働きというものはそんなもんじゃない。
例えていうと、働きでは十二月十四日、昨日はテレビで忠臣蔵がありました。打ち入り寸前のところまで私は見せて貰うた。成程、名は残った。四十七士の本当にそればってん、日本人のまあ精根というでしょうかね、やはりいつ見ても忠臣蔵はよいです。その面白いという意味に於い又ある意味で感心することもあるです。
しかし考えて見ると、こげな馬鹿はおらじゃったと思うですね。それはその武士は死んだら名を残すというその考え方から間違っとる。あれをまちっとスム-ズな御事柄として受け切っていっておったらです、もっと、もっと素晴らしい事が生まれたに違いないです。名が残って何になる。お芝居の材料ができるでけなのである。もう、仕えておる事の人間的な、浅ましい限り、本懐を遂げたとそれが人が助かる事は一つもない。もう根本的にです、いわゆる神の大愛を知らなかった。信じていないから、【 】の事になるのです。信心からいうとそういうふうに、世の中のすべての事がです、本当のもう一つ向こうの本当をわからせて頂く事が信心。それは何というても神の大愛を信じてわが身は神徳の中に敷かされてある喜びを謳歌しながら、名は残らんでもよい。そういう生き方をする事。それが自分一人でなくて、それが沢山の人を連れていく程しのおかげを頂いていくという事。そこんところを教えてやったらそれこそ、恐るべしであります。それこそ四十七士のそれではないけれども、沢山な家族が悲しみの淵に沈んでしまい、いわゆる、生臭いいわば血を流すような結果が生まれてくるだけ。そして後に考えてみて、はあ素晴らしかったと、成程、神の大愛を知らないものは、よいかもしらないけれども、例えば、大内蔵之介が金光様の信心者であったら、絶対ああゆう事は起こっていないという事。
もっと、もっと素晴らしい事になっておったという事。ああゆう大きな節に、もっと大きな節からいよいよ繁昌の芽が出たであろうという事。私共はね、ややもすると大石蔵之介を憧れたり高山彦九郎の生き方が素晴らしいと思うたり、もうこげん馬鹿のごとあるつまらん話はないです。
素晴らしい政治家が出て世の中が清まるという事は絶対にありません。素晴らしい宗教家が出てはじめて、世の中が清まるのです。
今日はどういう事だったでしょうか。神は声もなし、形も見えず、疑えば限りなし恐るべし、疑いをされよと、疑いをさらして頂く。その前提というようなところです成程、神様を疑えば限りがない。けれどもう、私共がこういう生き方にならせて頂いたら、疑う余地のない神の大愛を信ずる事の出来る生き方というものが出来るという行き方を、今日は聞いて頂いたですね。
どうぞ。